### 第一章:泥と日の光、そして守るべきもの
奥州・志田郡。その大地は、ただの土ではない。幾重にも積み重なった歴史と、荒ぶる自然が作り出した黒く肥えた重みがあった。まだ朝霧が立ち込める早朝、春の陽光が湿った大地をゆっくりと照らし始めると、渋谷はその冷たさを肌で感じながら、領民たちと混ざり合って田に立っていた。
渋谷の直垂は、長年の農耕と戦で泥に汚れ、本来の色さえ定かではない。しかし、彼はそれを恥じようともしなかった。鍬を振るうその肩には、何年も積み重ねてきた重労働の鍛錬が宿り、その背中は、この地を守り抜くという無言の意志を体現していた。
「若殿、またそんな格好で……。休んでいてくださればいいものを。我ら農民の手足があれば、この程度の田打ち、あっという間でございますよ」
年老いた農夫が心配そうに声をかけるが、渋谷は汗を拭いながら屈託なく笑った。
「何を言う。この土の匂いを知らぬ者に、民の守りなど務まるか。俺たちがこの土を耕し、豊かさを分かち合う。それが渋谷家の『義』であり、この地を護るための根幹だ」
彼は再び鍬を打ち込み、力強く土を返した。彼が耕すのは単なる田ではない。戦火が迫ろうとも、民が飢えることのない平穏な未来を育んでいるのだ。渋谷家の蔵には、常に領民のために蓄えられた糧があり、過酷な年貢を課すことは一度としてなかった。
そんな若き当主の姿を、領民たちはただの武士としてではなく、敬愛の念を持って見つめていた。もし渋谷が「力を貸せ」と一言、農具を武器に持ち替えろと合図すれば、数千の農民が瞬く間に野山を埋め尽くすだろう。歴史の表舞台にその名は刻まれずとも、奥州の地で誰よりも深く、強く根を張る「影の軍勢」。渋谷という男の強さは、その泥の中にこそあった。
しかし、そんな穏やかな平和を切り裂くように、京から「奥州探題」の名を冠した斯波氏の軍勢が、黒雲のように押し寄せてきた。雅やかな狩衣を纏い、最新の武具を誇る京の兵たち。彼らは奥州の土をただの支配物としか見ず、渋谷たちが代々守ってきた境界も、民の生活も、力づくで塗り替えようとした。
渋谷は泥を落とすと、静かに腰の太刀を握り直した。
「俺たちの土に、京の理屈など持ち込ませはしない」
その瞳には、泥のように深く、揺るぎない覚悟が宿っていた。戦火の幕は、こうして切って落とされたのである。
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